昭和46年05月09日 特別奉修委員
先程から久留米の、野口さんが昨日は、ああして佐田さん所のお祭りに御用されて、ほんでもう普通なら大変疲れるのですけども、もう一つも疲れもせずに、もう本当におかげを頂いておって言うて、お届けがありましたが、実は野口さん私も不思議で不思議でたまらん所があるっち言うて話した事でした。
もう御直会前の夕食も、もうそれこそあの真心、心の限りを尽くして有るあの、お食物を、もうそれこそ私はみんなたいらげしまうほど頂いたんですし、また後からの御直会も頂いて、あれが普通ならもうそれこそ限りなしお水を頂くとこですね。処が昨日から、昨晩から一滴も頂いておらんのです。
元にも必ず繁雄さんがコップ持ってきて下さったが、朝方空になってしまうんですよね。休んでおる間に。処が全然、今も渇きません。まぁ不思議なことがあればあるもんですね野口さん、というて今話した事です。
本当になんて言うんでしょうかね、真心一杯というか、昨日のお祭りの中にも教えて頂きます様に、本当に神々のラッシュだと云う様なことを頂きましたが、打ち向かう者も神ならば受けるものも神。それを元締めして下さる、神様もどの様にかお働き良かろうか、とこう思いますね。
私はこれはもう本当に、あの一つお互いの信心に一つの、ま一つの理想としてですね、あのやはり神慣わしてもらはなならん、真似させてもらわなならんって。まぁ朝の昨日の御理解を頂くと、もう愈々それ思います。
もう本当に有り難いお祭りを奉仕されるまでの、例えば信心状態といった様な物から、何から何まで感じて、それを思うんですがね、其処で私は、其の事を今の神様にお礼を申させて頂いて、まぁ本当に素晴らしいお祭りであったと、思わせて頂いた神様から只今頂くことはね、あの宿り木を頂くんですね。
合楽という木に、佐田という宿り木ね、ですから、なら佐田さんに本当の信心が出来とるというじゃない。本当はね。合楽にある信心がですね、合楽にただこう言う事と云える、佐田さんの信心は合楽の信心にいかに忠実かと云う事なんです。もうこれは絶対。もう今の合楽にも此の人達の右に出る者はありません。
ここだけは言える。だからあれが本当だ、完璧だと云う事はないと云う事なんです。もう合楽の信心に一家を上げてですたい、今で言うならば忠実であると云う事の点を頂きゃ素晴らしいです。だから合楽で私が、おかげを受けておる様なおかげが、いわば。
なら足りないながらも、あの様なおかげになって現れて来る訳で、有り難い、有り難いとどんなに考えても有り難い。だから問題はね、いかにいわゆる私共が教祖の御教えに忠実たれ、とこう言う事ですけども、なら教祖の御教えの一部、ほんの一部を頂いておる私なのですけど。
此処で皆さんが私の信心をです、いかに忠実でなからなならんかと云う事を、そして昨日、あたい朝の御理解何かを頂かれてね、私は例えば家内のあのを持って、昨日の朝も申しました様に、7人の子供を任せて頂いておるのに、2人だけはもう本当に難産でしたね。豊美と勝彦だけは。
豊美なんかはもう死んで産まれてきたんです。もうしかしまぁしゃなか母体だけ助かったからと、産婆さんも言いなって、それでおかげを頂いて、頂いておりますが、後の5人というものはどう云う事かというとね、なら神様のお言葉に私共夫婦がいかに忠実であったかと云う事だ。ああこれは家内だけ、子供、お産のことに限ってだけは、家内なんかの場合なんかはですね、腹帯をするなと御教えに有りますから腹帯を致しません。
そこにどう言う事になって来たかというと、産前身軽くと言う事になってきた。ね、皆んなのご存知の通りです、うちの後の5人の子供が産まれるのは、もう隣しらずの言ば安産なんです。ね、いわゆる教祖様はそげん言わっしゃるけども、親先生はいう言いなさるばってん、といったばってんをつけたら、あると言う事です。
いわゆる教祖の御教えに其の事だけには忠実であったと言う事。だから私昨日それ思うのにね、だからこそ産前見軽くと言うてですね、あれは誰の時だったでしょうかね、あの、2人目か3人目かだったでしょう。
まだあの椛目の小さいはしごの時でしたから、一番上から落ちたことがあった、大きなお腹で。ならとてもほらあの、いわゆる三人の愛子は、検診から帰ってくるときは、お腹が出てきとりましたからね、もうあれは、逆さ子でした。けれども其れこそもう馬鹿んごと安産でしたからね。北京から大分に引き上げて帰っとった人が、もう私のにちょうど前の日から来とった。
産婆さんが。もうこの人は、さかさに専門と言われんな人でした。ほんでもう私は神様にお願いに、善導寺に出るとき出てから帰って来た時はもう産まれとった。もうそれがもう見やすい見やすい事でした。
二重も組み込まれとったち。けれどもなら、さぁその事に付いても安産。もうそれこそ、産まれる何10分ぐらい前までジタバタしました。いわゆる、御教えに忠実であると言う事がですね、いわゆる、産前身軽るのおかげを頂いて、忠実であると言う事が隣しらずの安産。
私、あの一番最後の栄四郎と幹三郎なんかの場合なんかは、もうおかしい話ですけどれもね、あの気持ちが良かったっち言うとですからね。むしろ快感を伴うたちゅう。教祖様は隣しらずの安産、もうそれこそまぁ産むと言う事は、大変産みの苦しみというて、苦しむのが当たり前ですけどもです、おかげを頂いて教祖の御教えに忠実であれば、絶対苦しくないっちゆうことです。
それより私の5人の子供は、みんな家内がこれだけは体験さし、これだけは有り難い、ね、でお産のことでこんなお願いにいってから、こちらの奥様にお会いさせてもらうと、安産のおかげを頂くといて、これが迷信のように思いますけども、私は迷信じゃないと思う。確信をもった家内が言うのですからね。
そんかわり御産のことになったら、すぐ私どんにきて自分が御祈念します。そういうおかげになってくる。だから私共が例えば教祖の御教えに少し忠実であれば此の位おかげ頂いておる様に、三人の子の場合はです、いわゆる私の信心にもう是程忠実な生き方はなかと思うですね。これは私本当はかれない、これだけは。
誰が何と言ったって真似はでけんです。だから私の信心に忠実であると言う事は、もっと見やすい、あの難しい事じゃなかですよ。教祖の御教えに忠実であると言う事はですよね、これは中々教祖様そこに居られんのですからね、実際に。ただ書いたものが残っておるだけですからね。
けど此処で私が実際におって、私がおかげを現しておるのですからね、私の言うことならば本当は忠実であれて良かはずな、所が実際は佐田さんが感得とまで言われんにしてもです、佐田さんだけに私の信心に忠実であると言う人はまーだ後にも先にも見た事がありません。あらまぁ本当に、まぁ合楽ではたいしたもんですよ。
だからこれから此の信心が育っていき、お互いの信心もやはりね、例えば自分の都合のええとき、悪いときだけ伺うて、それを伺うて、其れだけを親先生任せになる、そんなもんじゃ無いですもん。ね、皆さんご承知じゃない、私と佐田さんだけしか知らない事、でもです、まぁ本当によーそれ程私の信心と言う物を、まぁいうならばマスターしとられると思うです。
其処になら上げての信心、いわばおかげ。あれが、それが昨日のあのようなおかげになってきた。佐田さんが使えられたお祭りでもなければ、神様が、がま出しなさったお祭りでもない。
その神様の働きと、佐田さん一家働きとがね、其処から丁度ね、鐘が鳴るのか、橦木がなるのかか。鐘と橦木の間が鳴ると言った様な、行にも似た様なおかげのお祭りが、あの様にしてでけた。只どれだけ考えても、恐れ入ってしまうですよ。例えばあの弟さんのその、お医者さんであります佐田(ていぞう)さん夫婦の(ていぞう)さんもあちらを済まれて、丁度お祭りは間に合わなかったけども、お説教の時はおられました。
奥さんはもう前あげん、前々からきて、もうあちらも大体お医者さんの奥さん、娘さんですからね、もう始めの間はおかしゅうしてから、神様なんて、ちゆう様な風でした。お参りしてきよたっちゃ。それが自分が二遍、三遍、五遍とお参りして行く内にです、あの様に振り変わって行かれた。
これは佐田さん一家のそう言う信心に、巻き込まれてしまいよんなさった。野口っざんが言われる様に、そりゃもうちょっと、本当まぁ気の強いお方じゃあるが、本当に信心の有んなさる人の様に、まぁ御用がでけておったと云う事を言うて居られましたですがね。そう言う事になって来るんですよ。家族全体なか親戚中までが。
そう言うならおかげを頂く私共が面々も同じだったでしょうが。成る程神が今「主」と、言う事を頂いたら。神が「主」を実感しましたですね。なんというても私は、そう言う例えば真心が、不思議な事でしょう。
野口っちゃんが疲れなかった事も不思議な事ながら、私が昨日からのど一滴、あれだけの沢山な会食をしてですよ、水を頂かないなんてどげん考えたって、それこそもう限りなしに水を頂く私が昨夜から今朝にかせて全然水の飲まない事。
不思議で不思議でたまらんぐらい。けれども真とは真心とはそうゆう働きを現すもんです。ですからそれは、ならどう言う事なのかと云う事です、いわゆる佐田さんの信心が根本的から根っからの信心がでけてあられる、私の信心に忠実であられると云うだけの事。だから此処にこれだけの沢山な信者がおりますけれどもです、忠実であるかの様であって、ちょっとも忠実じゃない半面。佐田さんが胸に手を置いてすぐ分かること。
(テープ切れ)